哥座(うたくら)                           
          WWWの果たてを限りとする無限大の智慧へ

 

 

  日本的無について
  ウツとウツツ (空と現) 身辺の宇宙をひらく
 



  はじめに
  ことばのチカラなくして、哲学も芸術も文学もなく、まして自然科学言語すなわち数学のチカラなくして、現代物理学はありえない。それは、古代ギリシャからいわれつづけてきたことで、いまさら前提して語ることでもない。また、漢字という神意に満ちた威力なくして老荘思想も儒教も詩経も唐や宋の華麗な文化したがって山水画も成り立たなかったことだろう。ところが、この自明と思われることが、日本においては、事情がことなってくる。生活に直結する法律文然り、ついこのまえまで、かかりつけの医者のカルテはドイツ語だったし、坊さんの読むお経は漢語だ。哲学書など読む気もなくなるような造語と、漢語と欧米語だらけだ。日本の独自の哲学といわれる西田哲学の有名な概念は「絶対矛盾的自己同一」だという。なんのことだろうか、「絶対」とは、「矛盾」とは「的」とは、「自己」とは、「同一」とは・・・。フィロゾフィーには智慧を愛するという意味があるらしいのでその訳語である哲学なのだから新しい智慧み満ちたコトバなのだろう、でもご利益のない題目のような、笑いのとれない落語の浮世根問のようで、分かったような気持ちにさせてくれるときもあるが、やはりごまかされているような、頭のなかのスイッチを何度もきり返しながら、わけの分からない二重性に苦しんでしまう。これは、読みの浅いわたくしだけの現象なのだろうか。こうした事態は、なにも人文系だけでなく、いたるところで遭遇するのである。このまえも、日本人の立派なクラッシック演奏を聴いて感動し、ふとわれに返った時、懇意にしていた演奏者に失礼な質問をしてしまった。「秋のしみじみしたこおろぎの声は好きだけど、演奏もすばらしかった。ところでこうした演奏の場合、なにか、頭のなかで切り替えの翻訳作業がはいってないか」と。

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  わたしたちの内なる
  第一言語と第二言語

○ 無文字文化には、ことばの使用に際し、概念化しない、描写を避けるというタブーがはたらいている。 その無文字文化の心性を核とすることばフルコト=古言を第一言語と規定した。それに対して、外来文化受容時に機能することば、書き文字とか、また、それに依拠した発想による概念を第二言語と規定した。本居宣長のいうところの漢意や自然とか社会とか主観とか客観とかの現代用語がこれにあたる。

○ 第一言語と第二言語とは、おのおのの視座が正反対に位置している。
第一言語は、全体性のはたらく視座からのことばである。
第二言語は、個別的、暫時的、仮寓的視座の特徴を持つ。

○ わたくしたちは現在でも、この第一言語と第二言語間を無意識にスウィッチングしながら暮らしている。

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わたしたちの心性の核は無文字文化にある。
○ フルコト=古言を身体用語や主要動詞、助詞、心性の本音とするわたくしたちの言語生活はおどろくことに、まだ縄文文化だといえる.。

○ 無文字文化は、表象をタブーとする。表現や概念化は観念空洞化を来たし、その空洞にはアイヌでいう「ワルサ」が働くことをよく知っていた。
一万年近くもの間、悪霊をよせつけなかった縄眼の文様の秘密はここにある。森や獣や虫の音をあるがまま受容するための装置。もうひとつの縄文装置がいまも内なる母屋で使う「ことば」である。その原始の心性は世界を全体として受容することばフルコト=古言として、いまもなをわたくしたちの自然や人や社会の第一言語となっている。

○ 第二言語は、隠蔽擬態である。それはちょうど、動物が攻撃される可能性がある時、周囲にすがたを似せて、延命をはかろうとするに似ている。第二言語として表記文字化された大宝律令の運用史。また昭和憲法のいかようにもなる拡大解釈には、そのだらしなさに唖然としてしまうが、東アジアの権力闘争に巻き込まれ、印中文化が進入した飛鳥奈良、そして明治の黒船の威圧外交で隠蔽擬態うまれた。いままた高度情報化時代文化としてのIT言語の受容の時だ。かくして新しい隠蔽擬態は常にうみだされたいる。

○ 第一言語は、時間とともに(仮名)第二言語を無化してしまう。 しかし、第二言語は危機に際する隠蔽擬態として、内と外をつなぐ縁側装置として常に生み出されている。善悪の判断は別にしても、わたくしたちのけものなみの擬態能力、造語能力にはすばらしいものがある。

○ ところで、無文字文化時代から、実はわたくしたちにとっての第二言語としての表現はたやすい作業であったはずだ。しかし、表現をしない、概念化しない、描写を避ける、第一言語には、より高度で強靭な精神性が働いている。


○ 高貴な精神性とは、縄文中期の岡本太郎のいうゴシック的火炎式土器ではなく、もっと前の縄文草創期から早期にかけての縄文の目に見て取ることができる、そこには、虫の音ひとつ、星の輝きを林の風を小川のせせらぎを、怖れと、歓喜そのまま、漏らさず受容していこうとする全体的視座獲得のためのすばらしい自己規制の法則が働いている。それを強く感じる。ジブン的には現在美術作品の制作作業におけるカガミとしている。

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日本的「無」について。そして日本的「空」とは。
 切れ字がよく効きだしたのは、芭蕉が参禅したあとからだ。切れ字の法則は無や空ににた働きをする。この導入で無文字文化精神の核をなしている全体的視座への転換が元禄の世で可能になった。日本語の先祖がえり的深化の完成
である。ただし、日本における「零」とは「無」とは「空」とは、印欧中の抽象化された概念とは全く異なっている。というより全く正反対であり、「無」や「空」という抽象概念思考をしないという意味での「無」であり、あるがままの事世界のでき事と一体となる概念未然の「空」である。ただし、これほどおもかげやひびき、にほひ、など日本人の心根をその創作の糧としていた芭蕉においてさえも、参禅してこの「無」や「空」のプロセス経験をしないことには、日本的「無」や「空」にたどりつけず、結果、母国語を活かしきることのできる、あの切れ字という装置を生み出せなかっのだ。この事実は文字伝来後の日本精神史を考える際に、たいへんに興味をそそられる問題であるように思われる。

 

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空になる心は春の霞にて 世にあらしとも 思い立つかな

西行の自由とは、あくまで無文字時代の心性にのっとったウツ(空)のチカラの働きに身をまかせ、ウツツ(現)の輝きと合一する境地であっただろう。この変哲もない歌一首にも、声にだして諳んじてみると、その直接的自由感覚と喜びの躍動感が伝わってくる。それが、いかに竜樹の中論でいわれる論理的空の世界と異なっているかを感じ取れるだろう。

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 注)この巻のすべての項目内容は、作業中である



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